一般社団法人 人工内耳友の会 ACITA

人工内耳友の会 ACITA
ACITA会報 No.145
2024/05発行

目 次
◆巻頭言 人工内耳とろう難聴教育今昔ばなし/大和大学白鳳短期大学部 専攻科 リハビリテーション学専攻 教授 田中 多賀子
◆ACITAからの報告
お知らせ
福岡大会のご案内
新規助成事業報告
関東ブロックから
◆支部便り
東北支部 神奈川支部 茨城支部
埼玉支部 東京支部 千葉支部
東海支部 静岡支部 富山支部
石川支部 愛媛支部
◆人工内耳の日記念企画
茨城支部 岡山支部
◆ふりーとーく
勝手にコーヒーブレイク(103)
新国立劇場 観劇サポート 字幕テスト
能登半島の復興を願って
◆メーカー掲示板
日本光電(バイオニクス) メドエルジャパン 日本コクレア
◆書籍案内
◆お知らせ
会員動向 お礼 事務局便り
編集後記 会計からのお知らせ
巻頭言 人工内耳とろう難聴教育今昔ばなし
大和大学白鳳短期大学部 専攻科
リハビリテーション学専攻 言語聴覚学課程
教授 田中 多賀子
はじめに御挨拶させて頂きます。能登半島地震に遭遇された皆様、お見舞い申し上げます。地震から4ヶ月経ち、やっと応急的復旧工事は終わりそうな段階に入ったと聞いております。一日も早く以前の生活を取り戻し復興されることを祈念しております。
会報 144号でACITAの理事・石川支部 長の野口様が、奥能登の会員の皆様の安否を 確認れ、全員の無事を報告されていました。まずは一安心ですが、人工内耳の機器の不具合、充電困難、それに伴う情報コミュニケー ジョンの不全、心身の不具合などの問題を抱 いてしまった方もいらっしゃるだろうと想像しています。これまでも災害時には病院から 状況把握の連絡を頂いたりメーカーから支援物資が届いたりしてきたことを伺っておりま す。これからも想定される災害時の困り事の中には、装用当事者同士(装用児の親同士)の情報・意見交換によってこそ解決の糸口に 繋がることもあるかもしれません。災害を受けた地域の支部と共に、ACITAもこれまで以上に支援できる事を願います。
日本では地震、世界的には戦争や気候変動等環境の問題や心配が尽きない昨今ですが、ろう難聴教育(現在は聴覚特別支援教育とも言われておりますが、ここでは「ろう難聴教育」と表します)の世界(人工内耳の受け入れ状況も含む)は、この半世紀の間、良い方向に変化してきていると実感しています。そのことを、私の経験や他のエピソードを織り交ぜながら見ていきたいと思います。
元号が令和になったころでしょうか。実家近くの聴覚特別支援学校(以下、ろう学校)の前の道を通りかかると朝や午後、道に面した教室から元気な声が聞こえてきます。「先生お早うございます。皆さんお早うご ざいます」朝の会の当番さんの元気な声です。「先生さようなら、皆さんさようなら」帰りの会でお別れの挨拶をして、一日が終わります。朝は一日が始まる気配、午後は下校準備の気配が伝わってきます。
ある日の夕方、下校中の小学校低学年位の女の子とお母さんを見かけました。親子は互いに、声、手話、指文字を使って楽しそうに会話していました。その様子に魅かれて思わず親子に近づきました。女の子は両耳に人工内耳を装用していました。「こんにちは、おしゃべり楽しそうですね。私の息子もきこえなくて小さい時、ろう学校幼稚部に通ってたんで すよ。だから指文字知ってるの」と、簡単な手話も使って話しかけたところ、女の子は目を丸くして、指文字と人工内耳知ってるのと驚き、母親と顔を見合せたのでした。自己紹介後、親御さんはこれからもこの辺りで会えるかもしれませんねと言って下さり、互いにまたねと言って別れました。
このように、 たまたま通りかかって、ろう学校内の微笑ましい生活の様子を感じたり、生徒と言葉を通い合わせたりすることができる時代になりました。現在、全国のほとんどのろう学校では、手話も聴覚(補聴器・人工 内耳装用)も積極的に使い、文字等視覚情報も補って確認できる教材も活用して、学年対応の教育が実践されています。聴覚主導で手話を使用しない学校、聴覚を使わず日本手話を母語として教育している学校も1校ずつあり教育方法は違いますが、どの学校も生徒達 は生き活きした表情で誇りを持って学んでいます。昭和30年代から平成初期までを振り返ると、溜息が出るほど隔世の感を覚えます。
私が生まれ育った昭和30〜40年(1950年代後半〜1970年代前半)は、きこえる者にとって、ろう学校に通う子ども達は別世界に住む人達でした。学校のそばを通りかかっても、校舎や校庭から声がきこえず、登下校の生徒同士の会話は手話だったので、きこえる者はきこえる人とコミュニケーションはできないと思っていたからです。親子が並んで歩いていても大抵無言でした。たまに親が何か話しかけると、子どもは苦しそうに発声して応えていましたが言葉として通じませんでした、子どもが手話で話しかけても親はそれを止める…そんな状況でした。周りの者も、たまたま手話で話しているきこえない人達に出会っても、手話は見ないようにするか、逆に手話を見て蔑む視線を向けるか、どちらかの反応でした。また殆んどのろう学校では3年生になって1年生の教科書を使い始めることを知り、驚いたものです。当時、この問題が後により切実な問題として自分の前に立ち現われてくるとは夢にも思いませんでした。
私は現在、言語聴覚士養成短期大学に勤めており、臨床現場でも言語聴覚に問題や心配のある子ども・成人の方達に係わっています。元々はリハビリテーションセンターで肢体不自由者への生活リハビリ面、福祉面の支援を担当していました。在職8年目で言語獲得前の次男が髄膜炎の後遺症で失聴したことで、家庭での言語療育に専念しました。息子のことが一段落した後、それまでの経験を活かして言葉の教室での言語指導を担当するようになり、言語聴覚士として今に至っています。
息子の失聴がわかった昭和61年(1986 年)、医学では治せない現実にショックを受けながらも、気持ちを切り替えて奮起しました。先人達を見習い療育・教育で残存能力を引き出し、社会で生きていく力を育てようと思いました。難聴療育機関やろう学校を色々見て廻り親子の共感関係を基礎にした指導法の専門機関に通うことにしました。家庭療育で言語コミュニケーションの基礎を育て、就園時期はろう学校幼稚部で少人数の教育を受けて地域の小学校への入学を目指しました。ろう学校を選ばなかった最大の理由は、息子の就学が近づいてきた1990年(平成2年)以降も、多くのろう学校では学年対応の教科書を使わず1年生レベルの授業を受けるのは3年生になってからという状況だったからです。幼稚部時代に通っていた学校は、息子が1年生になる平成4年(1992年)度から1年生の教科書を使う予定とききましたが、初の試み であり授業の中身がそのレベルに達するかどうか保障されてはいないのです。そんな訳で、地域の小学校に入学するまでに言語や基礎学力は家庭で、小集団内での言語コミュニ ケーションの力はろう学校幼稚部で、その他対人関係・社会性などは地域の保育園での交流を通して育てることを意識しました。
家庭の中だけでは偏りも出るし限界もあるので、周囲の協力を得てバランス良く人格形成ができるように心がけました。また、就学前の健康診断が実施される以前から教育委員会の先生と連絡をとり、本人・夫も同席で面談し入学後は学校の先生方と親が協力して本人を支えていく覚悟であることを伝えました。 時期をずらして、小学校の校長先生方とも次年度準備に向けて話し合う機会を作って頂きました。そんな経緯もあり地域の小学校入学は円滑に運びました。 担任の先生は、教室の壁に五十音表と共にキューサイン表も貼り出して下さり、クラスの友達もかな文字を覚えるのと同じように、ごく自然にキューサインの「あいうえお」を覚えてくれました。
このような環境整備面の配慮が多くありましたが、同時期、通常学級に通う難聴児がこのような支援を受けているとは限りません。当時、通常学級での就学を希望するということは、健常児を対象とした授業についていく力があり、聴こえや情報面の配慮がないことを本人も親も納得していると受け取られ、そのとおり何の支援もないことが多かったからです。先生がFM補聴器使用に協力して下さったら恵まれていると言われる状況でした。そんな中で、息子の小学校生活が順調なことは有難いことでした。残念で仕方なかったのは、次男の両耳の聴力は最重度でどんなにパ ワーのある補聴器であっても全く役に立たなかったため、聴能の改善は断念するしかなかったことです。息子を育てた時代は、前の時代から比べると補聴器の性能も向上し早期から教育が始まる時代になっていたので、110dB以上の重い聴力であっても聴覚が活用できる子ども達が多くなっていたのです。しかし、髄膜炎の後遺症で130dBスケールアウトの息子の場合は諦めざるを得ませんでした。ところが重度のろう難聴者を対象に した人工内耳の埋め込み手術が始まり、小児も対象になる時代になりました。色々な側面から疑念の目で見られていましたが、安全で信頼できるものと分かり、本人の希望も確認した上で、1994年(平成6年)、小3の時に手術を受けたのでした。その結果、音の有無が弁別出来るようになり、人工内耳装用開始直後は出来なかった母音の弁別能が数ヶ月後に2割程度になり、約1年後に7割近くまで向上しました。しかし子音の入った語音弁別は殆んどできず、単語や短文など意味ある言葉の聴き取りは不可能でした。親としては補聴器では得られなかった効果があったことを喜びましたが、次男の日常生活での活用や満足には至りませんでした。
期待した聴能面の改善は、そんな結果でしたが、学校生活は既述したように学校側の環境整備のお陰もあり、学習面でも友人とのコミュニケーション面でも順調に過ごすことができたのでした。
ここまでが次男の早期療育開始から地域の通常学級での参加状況の体験談です。この後、1990年(平成2年)代以降の日本のろう難聴教育の状況、人工内耳や手話の受け入れ状況、その他関連することについて見ていきます。
現在では、ろう学校やろう難聴教育の指導機関に通う子ども達は、音声・聴覚も、手話指文字もコミュニケーション手段・言語として使用しています。1990 年代・2000年代前半には珍しかった人工内耳装用は多くのろう学校で3割以上を占めるようになり(装用児の半分以上は通常学校に入学)両耳装用児も少なくない状況です。そこに至るまでの 経緯はどんな状況だったのでしょう。
人工内耳は平成の初期1991年に小児へ の手術が初めて実施されました。1994年(平成6年)に健康保険の適用になり、1998年(平成10年)に小児の適応基準が示され、親たちの信頼を得た影響もあり小児への手術が微増していきました。
同時期、文部科学省諮問機関「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議」が報告書の中で、手話、指文字を含めた多様なコミュニケーション手段の活用の必要性を明らかにしました。これが2009年(平成21年)、学習指導要領への「手話」の明記とろう学校でのコミュニケーション手段の一つとしての認知に繋がったようです。しかし、1995年(平成7年)に「ろう文化宣言」で、手話はろう者の母語であり言語であるとの当事者の主張が発表されます。手話はコミュニケーション手段に終わるもので はなく、音声言語と対等な「手話言語」であることを説いたものです。人類学、言語学、社会学系の研究者から肯定的な発言が出てくるようになり、同見地に立って日本手話で教育を行う、ろう児のフリースクール龍の子学 園が1999年(平成11年)に開校、9年後の2008年(平成20年)に文部科学省認可の学校法人明晴学園(幼稚部、小学部)へと発展し2010年(平成22年)には中学部も始まりました。
音声日本語とは別の文法を持つ日本手話だけを母語とする指導方針は、多くのろう難聴教育関係の多数派からは肯定の声は出てきませんでした。しかし全国の公立ろう学校内の指導に手話 (日本語対応手話、混合手話)を 積極的に使う動きが1990年代後半から2000年代前半頃(平成7年から平成15年頃)にかけて活発になっていき、ろう学校だけでなく難聴児対象の指導機関でも、幼少段階から聴覚活用と手話(日本語対応手話)を同時に使う指導法が採用されるところも増えていきました。
人工内耳については、前述したように、1994年(平成6年)に健康保険適用1998年(平成10年)に小児適応基準の明示を機に手術件数が微増していきます。2000年(平成12年)以降、新生児聴覚スクリーニングが普及していき、乳児期に難聴の発見が可能となり幼少期に人工内耳手術をする子ども達も増え、最近では両耳装用児も珍しくなくなってきたほどです。
こうして、ろう難聴教育現場では、1990年代前半(平成26年)頃まで疑念視されていた人工内耳と手話が、ほぼ同時期に受け入れられ始め、2000年代前半(平成12-16年)頃に普及していったのでした。そのきっかけとなる象徴的な出来事は、人工内耳は1994 年(平成6年)の健康保険適用、手話は1995 年(平成7年)「ろう文化宣言」の中での手話がろう者の言語であるとの主張ではないかと考えます。
2000年代(平成12-21年)、前述したように新生児聴覚スクリーニング普及の影響もあり、幼児期早期からの装用児が増えました。また手話については、2006年(平成18年)、国連の障害者権利条約に「言語に手話が含まれる」と明記され、その影響もあり、日本では、2010年(平成22年)鳥取県で全国初の手話言語条例が成立し、他の自治体にも広がり、都道府県レベルでは38自治体で条例が成立するようになりました。
2011年(平成23年)、改正障害者基本法 に「言語(手話を含む)」と明記され、手話が言語である認知が広がっています。「手話」が「日本手話」も「日本語対応手話」も含むのか、「日本手話」だけに限るのかについての定義が不明瞭なまま進んでいる課題があります。
人工内耳と手話のことで、特記しておくべきことがあります、私立明晴学園は、ろう者の母語は「日本手話」であると明言し、それに基づいた教育を実施している学校です。聴覚活用を必要とはしない方針なので、補聴器を装用している子どもさんは少ない状況です。まして人工内耳については、以前は否定的な立ち位置での発言もみられ、装用児は在籍していませんでした。しかし、『人工内耳も、手話も』という本が出版され、公開されている2022年度の状況報告の中で、人工内耳装用児にも手話が必要であることについて、在籍児と保護者、学校、言語聴覚士が協力し合って実証研究中であることを明らかにしています。自己決定できない子どもへの手術に反対してきたろう学校にとっても人工内耳は無視できなくなるほどの存在になったと分かり、ろう難聴児に与えている影響の大きさを改めて認識した次第です。日本の全てのろう学校に人工内耳装用児が在籍すること、指導方針や言語コミュニケーションに違いはあっても、それぞれの立場から装用児への理想的な教育を目指していることが分かりました。
半世紀以上前をふり返りながら、体験も含めた人工内耳装用児とろう難聴教育の日本の変容を見てきました。人工内耳の登場そのものがこの世界を揺さぶった訳ですが、社会も揺さぶったものとして手話の存在の大きさも確認できました。また、社会の障害者への意識が変わり理解する世の中へと変わっていったのですが、自然にそうなったのではありません。当事者の社会啓発も要因の一つです。ろう者は「手話」、難聴中途失聴者は「要約筆記」を社会認知させました。ACITAの役割を考えると、「人工内耳」と補聴援助システムの社会啓発、他の当事者の会と協力して補聴援助システム・情報保障の環境整備の社会啓発が望まれます。
最後に、装用児自身の人工内耳の理解に繋がり、社会参加となる園・学校での理解にも繋がるような絵本等の制作発行を、今後のACITAの試みの一つとして提案して、この今昔ばなしを終わることにします。
ふりーとーく
新国立劇場 観劇サポート 字幕テスト
富山支部 副支部長 渡部 良一
昨年10月10日に東京新国立劇場から観劇サポート字幕テストとしての観劇要請があり、11月3日に「終わりよければすべてよし」、11月9日に「尺には尺を」のテスト字幕を観て修正や感想をお聞かせくださいとのお知らせをいただきました。
生憎私は3日の都合が悪く今後のことも踏まえ東京支部に協力をお願いしたところ、事務局長の岡本美晴さんが観劇サポートを引き受けて下さいました。
私の観劇サポートは2回目です。1回目は7月2日に小劇場で「モグラ三千あつまって」という長塚圭史さん演出の若年層向けの作品でタブレットによる字幕付きお芝居を観劇させていただきました。初めてということも有り終演後字幕の(株)イヤホンガイドのスタッフの皆さんとタブレットの見え方や字幕の読みにくいところ、出し方のタイミング、演出的なト書き部分の字幕処理などかなり踏み込んだ話をさせていただきしました。今回はどのように修正されているのかとても楽しみでした。字幕付き観劇は以前IHIステージアラウンドで劇団新幹線の「髑髏城の七人」をリーディンググラスで見たことがあります。その時は字幕を見るのは問題なかったのですがグラスを通して舞台を見るので照度が半減し、舞台がとても暗く見えたので鼻下にグラスをずらし字幕は下を覗き込む形で見ました。でも結構楽しめたのでそれはそれで聴覚障がい者へのサポートはとてもありがたいです。
今回の観劇はシェークスピアのダークコメディ(暗い喜劇)が2作。台詞回しで見せるところが随所にある作品です。
11月9日胸躍らせて劇場に足を運びました。11月3日の公演「終わりよければすべてよし」は岡本さんからとても楽しく面白く見れましたとのご報告を受けておりましたので尚更です。
まずはもぎりの所で劇場スタッフにご挨拶して岡本さんと待ち合わせ。初めてお会いする方でしたがメールでのやり取りで想像してた通りの方ですぐにわかりました。とても気さくで親しみやすい方でしたのでほっと一安心です。劇場スタッフの方と一緒にまずは別室でタブレットをお借りして注意事項などと共に今回出演する方達の写真が役名入りで尚且つ場面により衣装の違いがわかる写真のコピーを渡されました。これは凄いです。門外不出のようで最後に回収されましたが、障がい者のために用意してくれているみたいです。
それと小さい子供さん用のキッズクッションも渡されました、はて?何に使うのかとお尋ねすると「膝に乗せてタブレットを置いてご覧ください」とのこと、流石です。前回指摘した「タブレットを持っていると腕が疲れ るし、膝に置くと目線の上下で首が疲れます」と言っていたことがもう反映されていました。
岡本さんにも事前に連絡して「荷物を膝の上に置いてその上にタブレットを置くのが良いです」と伝えていましたが問題なかったみたいです。客席に座りキッズクションを膝に乗せその上にタブレット置くと、中劇場はすり鉢状の客席でタブレットへの目線と、舞台との目線がほぼ同じ状態で、腕も首も辛くない快適に字幕を追える環境でした。
さて客席の照明が消えていよいよ「尺には尺を」開演です。鵜山仁さん演出で岡本健一さん、中島朋子さん、ソニンさん、などの俳優陣で構成されたお芝居は面白くないわけはないですが、ここは観劇の感想を述べる所ではないので字幕の話をさせていただきます。
前回指摘させていただいた「役名の字幕が長くそれを読んでるうちに話が先に進んでしまいます」ということが今回は全て解決していました。例えば「ヴィンセンシオ」の役名 は「公爵」となっていたような気がします。役名に目が行くと同時に台詞字幕にすぐ目が移り台詞を追いかけやすかったです。殆ど全ての字幕において問題無いところまで追いかけられたように思います。ただやはり早口の台詞回しとか、道化の難解な台詞など難しいところはあります。それは前もって観劇する私たちが事前にあらすじや台本を調べておく必要はあると思います。健聴者の方もオペラやバレエを見る時は同じことだと思います。新国立劇場では障がい者に対して事前に調べられるサービスも行なっているそうです。(素晴らしい)
岡本さんも同意見でしたが、劇場の音響がとても良くセリフは半分聞こえてきましたので、分からない所だけ字幕を追えば良い状態でした。劇場の作りと音響スタッフがとても良い仕事をしてくれているのだと思います。
この作品の照明デザインは服部基さんです。私の大先輩の方です。私は職業柄どうしても照明に目がいってしまいますが、今回もお芝居を邪魔しない裏切らないとても素敵な照明でした。
終演後、私と岡本さんと劇場スタッフ、字幕スタッフの方達と色々とお話しさせていただき改良点や問題点など話しました。少しだけ気になる所はお話ししましたが、ほぼ完璧に近い仕上がりですとお伝えしました。
岡本さんも2本の作品をご覧なられとても楽しまれていました。
私は観れなかった作品「終わりよければすべてよし」もどうしても観たくなり後日、障がい者割引のチケットを購入して観に行きました。想像以上にとても楽しく、舞台、お芝居をとても身近に感じました。字幕の力は難聴者にはとても有難いです。
新国立劇場では視覚、聴覚障がい者への観劇サポートを行っています。そのほか池袋の芸術劇場や帝国劇場、宝塚歌劇、劇団四季なども字幕タブレットの貸し出しをしているようです。これを日本のどの劇場でも出来れば良いのですが、字幕付き公演の地方ツアーもあるとイヤホンガイドの方から聞きました。
予約は必要ですが皆様一度劇場側が我々障がい者に手を広げてくださっているサポート観劇に足を運ばれてはいかがでしょうか。きっとまた違った世界が広がります。未だに「尺には尺を」のラストでイザベラが戸惑いながら去るシーンが頭に浮かんできています。
最後に新国立劇場の佐藤様、榊様、飯泉様、(株)イヤホンガイドの皆様、岡本様、本当に有難うございました。今後も障がい者へのサポート宜しくお願い致します。

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